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広島高等裁判所 昭和53年(う)74号 判決

主文

原判決の有罪部分を破棄する。

昭和五一年四月三〇日付起訴状記載の公訴事実について、被告人は無罪。

理由

〈前略〉

これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。

各論旨は、いずれも要するに、「原判決は昭和五一年四月三〇日付起訴状記載の公訴事実と同一の事実を認定し、被告人が橋本に対する住居侵入、強姦致傷事件の犯人であるとしているが、誤りであつて、被告人は無実である。このことは被告人の原審公判廷における供述等によつて明らかであり、原判決が有罪認定の補足説明の項でとくに証明力の高い証拠としている(1)捜査段階における被告人の自白、(2)警察犬による現場遺留のサンダルに関する臭気選別の結果、(3)被告人に対するポリグラフ検査の結果には、いずれも証拠能力がなく、仮に、証拠能力はあるとしても、証明力が極めて低いものであつて、これを個別的に検討し、更に他の証拠をも併せ総合して評価してみても、到底被告人を本件の犯人と認めるに足りないものである。したがつて、原判決は、証拠能力のない証拠を採用、挙示した点において訴訟手続の法令違反を犯したものであり、そうでないとしても、証拠の評価若しくは取捨選択を誤つて事実を誤認したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから破棄を免れない。」というに帰着する。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも加えて検討したところ、当裁判所は、原判示日時場所において、原判示のような住居侵入、強姦致傷事件が発生したことは明白であるけれども、その犯人が被告人であるとの点についてはその証明が十分といえず、被告人を有罪とした原判決には事実の誤認があるとの結論に達した。弁護人らの論旨及び検察官の答弁にかんがみ、順次、当裁判所の判断を示すこととする。

なお、説明の便宜上、以下においては、昭和五一年四月三〇日付起訴状記載の事件、つまり、橋本武夫方で発生した住居侵入、強姦致傷事件を、橋本に対する強姦致傷事件、又は単に、強姦致傷事件と、昭和五〇年一〇月一三日付起訴状記載の事件、つまりA子を被害者とする強制猥せつ事件を、A子に対する強制猥せつ事件、又は単に、強制猥せつ事件と略記し、更に、供述調書については、例えば、昭和五〇年一〇月一〇日付の司法警察員に対する供述調書を五〇・一〇・一〇員、昭和五一年四月二一日付の検察官に対する供述調書を五一・四・二一検の如く略記することとする。

第一捜査段階における被告人の自白の証拠能力及び証明力について。〈省略〉

第二警察犬による臭気選別結果の証拠能力及び証明力について。

この点に関する論旨は、要するに、「原判決は、現場に遺留された犯人のサンダルと被告人の靴下の臭気の同一性に関する警察犬による臭気選別の結果、つまり、司法巡査作成の昭和五〇年一〇月四日付捜査状況報告書に証拠能力を認めたうえ、被告人と犯人の同一性の認定に関する客観的証拠として、その証明力は相当高度である旨説示しているが、誤りである。すなわち、犬の嗅覚についてはまだ解明されていない点が少なくなく、これを利用した臭気選別の結果の正確性は科学的に確認されておらず、むしろ確認できない情況であるから、被告人と犯人の同一性を立証するための証拠としては一般的に証明力が乏しいものというべきであつて、証拠能力肯定の前提とされている自然的関連性が欠けているので、証拠能力は認められない。そうでないとしても、本件のように、裁判所の面前でも被告人の面前でもなく、しかも、被告人の体臭そのものを対象とせずに、被告人の提出した靴下の臭気を対象として、警察官である警察犬訓練士が警察犬を使用して行つた臭気選別の場合には、捜査官の作為等が入り込む余地があるから、その結果に証拠能力を認めるべきではない。仮に、証拠能力が認められるとしても、本件臭気選別の結果の証明力は低く、これをもつて被告人と犯人の同一性を認定する有力な証拠ということはできない。」というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討するに、関係証拠、とりわけ、原審及び当審における証人砂田恒典の各供述、当審証人小林宏志、同世渡幸男、同竹本昌生の各供述、当審鑑定人小林宏志作成及び同竹本昌生作成の各鑑定書によれば、まず、警察犬による臭気選別の実情ないしその結果の一般的信頼性について次の事実が認められる。すなわち、

(1)  犬の嗅覚力は、臭いの種類により異り、個体差もあるとはいえ、一般的に、人間に比べてはるかに鋭敏であり、とくに、訓練により習得された警察犬の臭いを弁別する能力は極めて優れているのであつて、犬の指導、訓練につき専門的知識、技能、経験を有する指導手が、このような警察犬を使用して実施した臭気選別――警察犬に臭いの異つた数個の物品(若しくはその移行臭)の中から指導手の指定した物品の臭気=原臭=と同一の臭気の付着した物品(若しくはその移行臭)を選出させること――の結果は、経験上かなり高度の正確性を有するものとされている。

(2)  臭気選別は、例えば、足跡の追求、物品の発見などと比べて、犬に複雑な作業を求めるものであり、よく訓練された警察犬であつても、その時の体調や現場の雰囲気などによつて選別能力を十分に発揮できない場合があるから、臭気選別は、当該警察犬を日頃から指導してその信頼を受け、その性癖等をよく知つている警察犬訓練士が指導手となり、あらかじめテスト選別を行つて犬の選別能力が十分発揮できる状態であることを確認したうえで実施する必要がある。

右(1)及び(2)の事実が認められる。

この事実関係によれば、警察犬の取扱い等につき専門的な知識、技能、経験を有する訓練士が指導手となり、臭気選別の能力のある体調等良好の警察犬を使用して実施した臭気選別の結果には、経験的にかなり高度の正確性が認められるのであるから、一般的定型的にみてその証明力が乏しいものとはいえないのであつて、証拠能力を肯定するに必要な自然的関連性があるものと解するのが相当である。尤も、臭気の実体、構造、種別、嗅覚のメカニズムといつた点については、現在までのところ、自然科学的な意味では解明されていない部分が多く、人間の体臭についても、指紋のように、万人不同、終生不変という特性を有しているかどうかが明らかでないうえ(むしろ、終生不変ではないと考えられる。)一定のテストに合格し、水準以上の能力があるとみられる警察犬の間でも臭気選別能力にかなりの個体差があることは否定できないところであるから(警察犬による臭気選別のコンクールが存在することは、個体差のあることを前提としているし、警察犬として、臭気選別能力が最高水準にあるのは、通常四歳から七歳位までであり、その後右能力は低下するとされている。)、例えば、現場遺留物品の臭いを原臭とする臭気選別において、警察犬が、右原臭、つまり、犯人の臭いと同一の臭いが付着した物品として被疑者の物品を選別したような場合であつても、それは当該警察犬が習得した臭気選別の能力による限り、犯人の臭いと被疑者の臭いが同一と判定された、というにすぎないのであつて、右結果から犯人の臭いと被疑者の臭いが科学的な意味で同一であると即断することはできず、いわんや右結果のみによつて被疑者を犯人と認定することはできないところである。しかし、このように事柄の性質上その証明力に自ら限界があるからといつて、そのために証拠として無意味であるとか、証明力が定型的に乏しいとかいうことはできないのであり、その自然的関連性まで否定すべき謂れはないものというべきである。そして、警察犬による臭気選別の経過及び結果をその指導手が記載した書面は、その記載内容の性質、すなわち、司法警察職員としての立場で、単に警察犬の物品選出状況を目撃して、これを記載する、というに止まらず、つねに、訓練士としての専門的立場から、選別実験を準備し、警察犬の体調や選別態度等を判断したうえ、その結果についての一定の評価をも加えて記載しているものであることにかんがみる限り、いわば、鑑定受託者たる指導手が犬(の嗅覚力)を道具として行つた鑑定の報告書と考えられるから、刑事訴訟法三二一条四項の鑑定書に準じ、同条項に則つて証拠能力を付与されるものと解するのが相当である。

所論は、まず、「犬の嗅覚そのものについては、解明されていない点が多く、これを利用した臭気選別の結果の正確性は科学的に確認されておらず、むしろ確認できない情況であるから、一般的定型的に証明力が乏しく、証拠能力は認められない。」というのである。なるほど、臭気や嗅覚についての解明が十分になされておらず、犬による臭気選別の結果の正確性が科学的に確認されていないことは所論指摘のとおりであるが、そのことの一事によつて証明力が定型的に乏しいとか、証拠としての自然的関連性がないとはいえないのであつて、警察犬がその嗅覚力によつて臭気選別を行い、その結果が経験上かなり高度の正確性を有するものと認められる以上、証拠としての自然的関連性を肯定することが許されるものというべきである(なお、所謂「伝統的筆蹟鑑定方法」によつた鑑定につきその証拠能力を肯定した最高裁判所昭和四〇年(あ)第二三八号第二小法廷決定昭和四一年二月二一日、刑事裁判集一五八号三二一頁以下参照。)。尤も、臭気選別の結果を犯人と被告人の同一性の立証に使用する場合、その証明力に自ら制約があることは前説示のとおりであるが、それは、程度の差こそあれ、他の証拠においても存在しうるものであつて、これを理由に証拠の自然的関連性まで否定するのは相当でない。

所論は、又、「犬による臭気選別については、原臭の保存ができず、警察犬の体調等もその都度変化するので、再実験による正確性の確認ができないばかりでなく、本件のように、裁判所や被告人の面前でなく、しかも被告人の体臭そのものを対象とせずに、その提出した靴下の臭気を対象とし、警察官が自ら警察犬を使用して実施したような場合には、捜査官の作為等が入り込む余地があるから、その結果には証拠能力を認めるべきでない。」というのである。しかし、関係証拠によると、原臭の付着した遺留物品をビニール袋に入れて完全に密封し、臭気の発散と変化を防ぐ措置をとれば、この原臭を相当の期間そのまま保存することが可能であり、のちにその原臭から作成した移行臭を使用して、同一又は他の警察犬による臭気選別を行うことは比較的容易であると認められるから、臭気選別について再実験による正確性の確認が全くできないということはいえない。のみならず、当初の鑑定によつて鑑定資料が全部費消等されたため、この資料による再鑑定が不可能になるということは、他の場合にも生じうることであつて、この点を理由として臭気選別の結果の証拠能力を否定することは相当でない。又、本件において、臭気選別の指導手である砂田が警察犬訓練士であるとともに警察官(司法巡査)でもあつたことは所論指摘のとおりであるが、同人は後記(3)(イ)の如く、広島県警察本部鑑識課に所属する技術者であつて、捜査官ではないのであるから、指導手が警察官の身分を有することをもつて、その実施にかかる臭気選別の結果の証拠能力を否定することも失当というほかない(このようなことは、捜査機関が警察関係の技術者らに鑑定を嘱託した場合につねに発生する問題であつて、警察医による死因鑑定や警察技術吏員による事故車両特定の鑑定などと警察の鑑識課に所属する警察犬訓練士による臭気選別とを刑事訴訟法上別異に取り扱うべく合理的根拠は見出せない。)。更に、臭気選別が裁判所の面前でなく、被告人の立会いもないままで実施されたとの点も直ちに証拠能力を否定すべき理由とは考え難く、その他所論にかんがみ、関係証拠を検討しても、警察犬による臭気選別、とくに、捜査段階における臭気選別につき、その結果の一般的信頼性あるいは証拠能力を否定すべき具体的事由は発見できない(ちなみに、所論のような疑惑を少しでも解消させるためには、まず、公判段階における再度の臭気選別に備えて、原臭の保存を厳にするとともに、移行臭による選別を原則とする必要があり、又、捜査段階における臭気選別に第三者を立ち会わせることや臭気選別の情況をビデオテープに収録等する配慮も望まれるところである。)。

そこで、更に、本件における臭気選別結果の証拠能力及び証明力につき検討してみると、関係証拠によれば、本件臭気選別の経過と結果について次の事実が認められる。すなわち、

(3)  本件臭気選別は、昭和五〇年一〇月三日、呉警察署構内において、指導手砂田恒典が警察犬ベッシー号を、指導手世波幸男が警察犬コラード号を、それぞれ使用して実施し、その結果を砂田において総合判定したものであるが、(イ)砂田は、広島県警察本部鑑識課に所属し、警察犬担当の係員として、当時までに約五年半位警察犬を訓練した経験があり、その間、民間団体である日本警察犬協会から訓練免許を受けて三等訓練士の肩書を得、又、同協会の指導者から警察犬訓練の技術等につき講習を受けていた者であり、(ロ)世波は、昭和二六年ころから警察犬の訓練を職とし、当時、日本警察犬協会の一等訓練士(同協会においては、経験年数や訓練実績頭数、学科試験の結果などを基準に、一等訓練士正、一等訓練士、二等訓練士、三等訓練士の四階級を定めていて、一等訓練士は全国に約一〇〇名いるとされている。)の肩書を有していた者であり、(ハ)ベッシー号は、広島県警察本部の直轄犬で、主として砂田から訓練を受けてきた六歳のシェパード犬(雌)であり、(ニ)コラード号は、個人が所有し、生後六か月位から世波の訓練を受け、二歳六月のころにテストに合格して警察犬の資格を得た四歳のシェパード犬(雄)である。

(4)  本件臭気選別の当日、現場において、砂田及び世波がベッシー号とコラード号の体調を調べるため、立会警察官の体臭を素材としてテスト選別を行つたところ、ベッシー号は一五回の実施で一二回成功、三回失敗、コラード号は七回の実施で全回成功という結果であつたので、砂田は二頭ともに調子良好と判断し、この二頭を使用して本選別を行うことにした。

(5)  本件臭気選別の原臭は、現場に遺留されていたサンダル一足であり、事件発生から約一時間後(昭和五〇年九月二三日午前二時半前後)に実況見分を行つた警察官が現場から領置し、一旦、ビニール袋に入れて保管したものの、その後、少なくとも、一〇月二日のポリグラフ検査の際には検査者吉川昭満が他の者のサンダルなどと一緒に素手で取扱つた形跡があり、本件選別までの間その臭気が適切に保存されていたとは認め難い。選別の対象となつたのは、被告人が前日午後、司法警察員(渡利)に任意提出した被告人着用の靴下一足であり、ビニール袋に入れて保管されていたが、本件選別に先立ち、砂田において、その移行臭を作成し、又、誘惑臭気として、呉警察署の警察官五名の素手と靴下からその移行臭を作成した。

(6)  第一回目の臭気選別では、臭源として現場遺留のサンダル一足の片方を直接使用し、選別台には被告人の靴下の移行臭と呉警察署員の靴下の移行臭四個を置いて実施したところ、ベッシー号は二回実施して二回とも被告人の臭気を、コラード号は五回実施して四回被告人の臭気を選出した。第二回目の選別においては、臭源として被告人の靴下の移行臭を使用し、選別台には現場遺留のサンダルの片方(第一回目に使用されなかつた方)と呉警察署員のサンダル四個を置いて実施したところ、ベッシー号は三回実施して三回とも現場遺留のサンダルを選別した。疲労が認められるなどしたので、第二回目の選別にはコラード号を使用しなかつた。

(7)  砂田は、右(6)の選別状況から、現場遺留のサンダルと被告人の靴下の「臭気は同一であることが窺える」旨判定し、本件臭気選別の経過及び結果をとりまとめて捜査状況報告書を作成した。

以上(3)ないし(7)の事実が認められる。

右の事実関係、とくに、(3)及び(4)の事実によれば、本件臭気選別は、警察犬の取扱いにつき専門的な知識、経験を有する砂田が、同様の知識、経験を有する世波の協力を得たうえ、臭気選別能力を有し、テスト選別において体調等が良好と判定された二頭の警察犬を使用して実施したものであり、砂田の作成名義の捜査状況報告書は、同人が自己の専門的立場から、右実施状況の経過及び結果を記載して作成したものであるから、先に説明した理由により、刑事訴訟法三二一条四項に則り、証拠能力を認めるのが相当であつて、原審が右砂田の証言により書面が真正に作成されたものであることを確認したうえ、これを証拠として取調べたことに誤りはない。尤も、原審は、右書面を実況見分調書と解し、同法条三項の検証調書に準じて同項に則り証拠としているので、証拠能力付与の根拠条項を誤つたことになるが、これは何ら判決に影響を及ぼすものではなく、臭気選別の結果の証拠能力を否定すべきものとする論旨には理由がない。

そして、叙上のごとく、二頭の警察犬がそれぞれ高い割合で現場遺留のサンダルと被告人の靴下の臭気を同一と選別しているのであるから、この選別結果の証明力は相当に高度であるとも考えられるのであるが、更に、前掲関係証拠、とくに、当審証人竹本昌生の供述と同人作成の鑑定書及び小林宏志作成の鑑定書を参酎して、前示(4)ないし(6)の臭気選別の経過及び結果につき吟味してみると、(イ)犬による臭気選別において、最も重要なことは原臭の保存が適切になされていることであると認められるところ(指導手は、臭源を含めすべて金属性のピンセットを使用し、素手の臭いが物品に付着しないように配慮しているのである。)、本件における原臭、つまり、現場遺留のサンダル一足については、前記(5)のとおり、その保管が適切になされていなかつた疑いがあり、原臭が発散、変化していた可能性を否定することができないこと、(ロ)ベッシー号はテスト選別において、すでに二〇パーセントの失敗を示していたのであり、その原因が必ずしも明らかでなく、ひいてはこれが解消、除去されたとは断定できない以上、ベッシー号による本選別の結果に全面的な信頼を置くことはできないこと(証人砂田は、ベッシー号の体調が次第に良好になつたと認めたので本選別に使用した旨供述しているが、三回の失敗がどの段階で生じたものかを明らかにすることができず、他方、証人世波の供述によれば、二頭の犬のほかに予備のために連れていつた三頭目の犬――アンデリカ号――がいたが、この犬はテスト選別の段階から体調の不良が明らかで、本選別には使用できない情況であつたことが認められるから、ベッシー号を使用したのは、いわば次善の方策であつたものと解される。)、(ハ)第一回目の本選別において、ベッシー号を二度使用したのであるが、証人竹本によれば、臭気選別の結果に信頼性を認めるためには、三度以上実施して一致した結果が生じることが必要とされており、右二度の実施ではやや少ない感があること、(ニ)犬が物品選別を行う場合に臭気以外のものの影響を受けているのかどうかは必ずしも明らかでなく、それ故、嗅覚力のみによる臭気の選別であることを担保するためには、(a)物品の形状や色相等に影響されることのないように、選別には物品そのものの使用を避け、その移行臭を作成してこれを使用すること、(b)選別台上の位置による影響を受けることのないように、一回毎に移行臭の位置を並べ変えること、(c)指導手の態度や顔色に影響されることのないように、指導手自身が、どれが原臭でどれが誘惑臭かを知らないようにすることなどの配慮が必要であると認められるところ、本件臭気選別においては、現場遺留のサンダルそのものが選別に使用されているうえ(なお、サンダルを直接使用した結果、第二回目の本選別において、ベッシー号が三度とも同じサンダルを選出したのは、最初の選出のときにサンダルに自己の唾液が付着してしまつたためであり、二度目、三度目はこのだ液によつてサンダルを選別したのではないか、との疑いも否定できない。)、選別台上に置かれた移行臭の位置がその都度変更されていたかどうか不明であり、更に、少なくとも砂田は、どれが原臭でどれが誘惑臭かを知つていたことが窺われるのであつて、本件選別の方法にも問題がなかつたとはいえないことなど、選別結果の信頼性に疑問を抱かせる事情が少なからず存在し、これを要するに、本件臭気選別は、原臭の保管、警察犬の体調、選別の実施方法等、いずれの点においても通常要請される厳格な手段、方法がとられていたとは認め難いのである。

そうしてみると、本件臭気選別の結果については、その証明力が相当に高度であるとまでは認められないのであつて、原判決が右証明力を「相当高度」と判示し、被告人と犯人の同一性の認定に関する有力な証拠としたことは、右証拠の評価を誤つたきらいがあるが、この点の論旨は、ひつきよう右評価の誤り等に基づく事実誤認の主張であるから、これに対する判断は後にゆずることとする。

第三ポリグラフ検査結果の証拠能力及び証明力について。

この点に関する論旨は、要するに、「原判決は、被告人に対するポリグラフ検査の結果、つまり、広島県警察本部刑事部犯罪科学研究所長作成の「検査結果について(回答)」と題する書面及び「検査鑑定書の送付について」と題する書面(鑑定書添付)の証拠能力を肯定したうえ、被告人と犯人との同一性の認定に関する客観的証拠として、その証明力は相当高度である旨説示しているが、誤りである。すなわち、ポリグラフ検査結果の正確性は一般的に必ずしも高いものとはいえないうえ、本件におけるポリグラフ検査は、形式的に被告人の承諾を得て行われているものの、その際被告人に検査を拒否できる旨を告知した形跡がなく、右承諾が被告人の真意に基づくものとはいえないので、黙秘権侵害の疑いがあり、しかも、当時の被告人の心身状態の不正常や検査内容の不合理性等にかんがみ、検査結果の正確性が十分に保証されているとも認め難いので、前記各書面には証拠能力がないものというべきである。仮に、証拠能力があるとしても、その結論は『本事件に対する認識がやや有ると考えられる』という程度であるから、その証明力はかなり低いものというほかない。」というのである。

そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討するに、関係証拠、とりわけ、原審及び当審における証人吉川昭満及び被告人の各供述によれば、ポリグラフ検査の原理及び本件検査の経過等について次の事実が認められる。すなわち、

(1)  ポリグラフ検査とは、一般に、心身ともに正常な者が意識的に記憶に反して真実を覆い隠そうとすると、精神的動揺をきたし更に、生理的変化ないし身体的反応を惹起することに着目して、被疑者等の被検者に対し、被疑事実に関係のある質問をして回答させ、その際の被検者の呼吸、血圧脈博、皮膚電気反射に現われた反応(生理的変化)を特別の科学的器械(ポリグラフ)の検査紙に記録させたうえ、これを観察分析して、被検者の被疑事実に関する回答の真偽あるいは被疑事実に関する認識の有無を判断しようとするものであつて、検査者が心理学や生理学上の知識を有するとともに、訓練と経験に基づく高度の技術を有する者であること、器械が一定の規格に合つた製品で、使用の際に信頼できる状態にあること、被検者の心身状態が正常であることが、ポリグラフ検査の前提となるが、これらの条件が充たされている限り、検査の結果はかなり正確なものと認められている。

(2)  本件ポリグラフ検査の検査者である吉川昭満は、広島県警察本部刑事部犯罪科学研究所に所属する警察技術吏であり、昭和四二年一〇月ころ、約一か月間、警察庁科学警察研究所において心理学、生理学などの基礎的知識及びポリグラフ検査の技術を習得し、その後前記犯罪科学研究所において先任の技術吏員らから同検査の実務を指導され、同四四年四月以降、同研究所において、ポリグラフ検査の責任担当者として、年間四〇件位の同検査を実施してきている。

(3)  本件検査に使用された器械は、全国の警察関係者が統一して使用している竹井機器の製作にかかる竹井KT―一型(昭和四八年)であり、本件検査に先立ち、あらかじめ正常に作製していることが確認されている。

(4) 被告人は、先に判示したような事情(前記第一の(3)、(4))で、昭和五〇年一〇月二日朝、勤務先からパトロール・カーに乗せられて呉警察署に出頭し、司法警察員(渡利)からA子に対する強制猥せつ事件につき事情聴取を受けたのち、午後からポリグラフ検査を受けてもらいたい旨言われてこれを承諾し、同日午後一時ころより、同警察署内に準備された小部屋において、検査者吉川昭満からポリグラフ検査の器械を示されながら、検査の趣旨やその原理、事件の概略についての説明を受け、改めて被検者となることを承諾して承諾書に署名捺印したうえ、約一時間に亘り本件検査を受けたものであつて、捜査中は外部的影響や刺激を防止するため、部屋の外に見張りを置くなどの措置がとられた。

(5)  吉川は、本件ポリグラフ検査の終了後、自己の知識、経験に基づいて検査紙の記録を分析し、その結果を広島県警察本部刑事部犯罪科学研究所長名義の「検査結果について(回答)」と題する書面にまとめたが、のちに、右検査の経過及び結果を詳細に記載した鑑定書を作成して右研究所長に提出し、同所長において、これに「検査鑑定書の送付について」と題する書面を添えて呉警察署長に送付した。

以上(1)ないし(5)の事実が認められる。

このような事実によれば、現行のポリグラフ検査の結果は、一般的にかなり高い正確性が認められるので、検査の経過及び結果を記載した書面については、刑事訴訟法三二一条四項の「鑑定書」に準じてその証拠能力の存否を検討するのが相当であると解されるところ、本件ポリグラフ検査において黙秘権の侵害等の手続的違法がなかつたことは明らかであり、又、右検査にはその正確性を担保する前提条件(検査者の知識、技能、経験、器械の性能、被検者の心身状態)も充足されていたものと認められるから、検査者である吉川が自ら右検査の経過及び結果を記載した前掲各書面の証拠能力はこれを肯認すべきものである。尤も、関係証拠によれば、ポリグラフ検査において被検者に現われる皮膚電気反射の反応については、その科学的信頼性に疑問があるとの批判が存し、又、被検者に対する質問と分析の方法として、緊張最高点質問法(犯行に関する特定の事実についての認識の有無を判定しようとするもの)の正確性は明らかであるが、対照質問法(犯行全体についての供述の真偽を判定しようとするもの)の正確性は疑わしい、との見解があることが認められるけれども、そうであるとしても、これらをもつて直ちにポリグラフ検査の結果の一般的正確性を全面的に否定すべき理由とすることは相当でなくこれらの点は、ポリグラフ検査結果の信頼性若しくは証明力を具体的に検討、評価する際に考慮すれば足りるものと解される。

所論は、まず、「本件ポリグラフ検査は、形式的には被告人の承諾を得て行われているものの、その際検査を拒否できる旨の告知がなされておらず、右承諾が被告人の真意に基づくものとはいえないので、黙秘権を侵害した点において違憲違法である。」というのである。しかし、前示(4)のとおり、被告人は、本件ポリグラフ検査に際して、その趣旨や原理につき検査者から十分な説明を受けたうえ、被検者となることを承諾したものであつて、任意な承諾であることは明らかであり、たとえ、検査者において検査拒否の権利(自由)がある旨を明言しなかつたとしても、これをもつて右承諾が真意に基づかないものとはいえないから、この点の所論は到底採用できない。

次に所論は、「本件検査当時、被告人の心身状態は、正常でなかつたから、検査結果の正確性には疑問がある。」というのであるが、少なくとも前示(4)の事実関係による限り、被告人の心身状態が、被検者となるのに適さない程度に異常若しくは不健全であつたとは到底認められないのであつて、呉警察署への出頭時の状況、取調べの状況その他記録上窺われる被告人の性格、健康状態などを参酌しても、いまだ、所論のような事情は認め難く、この点の所論は理由がない。

更に所論は、「本件検査の内容、とくに、質問表の作成や質問の仕方には合理性がないので、結果の正確性が保証されていない。」というのである。なるほど、本件検査における質問の構成を具体的に検討してみると、第一質問で対照質問法をとり、橋本に対する強姦致傷の犯行に関する具体的な事実(例えば、炊事場の窓が侵入口であること、犯人は女の人を殴つたりしたこと、現場に鋏や紐を忘れてきたことなど)を質問の中に折り込みながら、後の緊張最高点質問法による質問(例えば、第四、七、一二など)において、この具体的事実を裁決質問としている点など質問構成に不適切なものがみうけられる。しかし、これは、本件検査結果の信頼性若しくは証明力を評価する際に考慮すべきものであり、かつ、それで足りるものであつて、このような質問構成上の部分的不適切を理由に、本件検査結果の証拠能力まで否定するのは相当でないから、この点の所論も採るを得ない。

その他本件ポリグラフ検査の結果(これを記載した前記各書面)につき、その証拠能力を否定すべき具体的事由はないから、原判決が、刑事訴訟法三二一条四項により本件ポリグラフ検査の結果を記載した前記各書面の証拠能力を認めたことに誤りはなく、この点に関する論旨は理由がない。

そこで、進んで、本件ポリグラフ検査結果の証明力について検討するに、前掲各書面(「検査結果について(回答)」と題する書面及び「検査鑑定書の送付について」と題する書面―鑑定書添付―)とこれに関する証人吉川昭満の原審及び当審における各供述によれば、本件検査結果の結論は、要するに、「橋本に対する強姦致傷事件についてなされた一三個の質問のうち、八個の質問につき陽性反応をわずかに示しているので(一個の質問については判定不能、四個の質問については認識の有無不明)、本事件に関する認識がややある、と考えられる。」というものにすぎないのであるから、これを全面的に採用するとしても、本件検査結果の証明力は必ずしも高度なものではない。のみならず、先に、右結果の証拠能力に関する判断の項で説示したように、本件検査の質問構成には不適切と思われるものとみられるので、陽性と判定されている八個の質問に対する反応の中にも、そのままには評価できないものが存することは否定できず(例えば、第七質問関係第一二質問関係)、更に、陽性反応を示したとされている中には、比較的信頼性が乏しいと批判されている皮膚電気反射だけが反応を示した場合も含まれることが窺われるのであつて、これらの諸点を併せ考えると、本件ポリグラフ検査の結果の証明力はむしろかなり低いものといわざるを得ない。

したがつて、原判決が本件検査結果の証明力を「相当高度」と判示したことは誤りというほかないが、この点に関する論旨は、右評価の誤り等に基因する事実誤認の主張に帰着するので、これに対する判断は後にゆずることとする(なお、仮に、ポリグラフ検査の結果、検査紙に顕著な陽性反応が記録された場合であつても、それは、せいぜい被検者の自白の信用性を高めたり、否認供述の信用性を低め、弾劾するものにすぎないと解され、それだけで犯罪事実を証明するものではないと考えるのが相当であるから、原判決は、本件検査結果を「被告人と犯人との同一性の認定に関する客観的証拠」であるかの如く説示している点においても、証拠の証明力を誤つたものというべきである。)。

第四以上、第一ないし第三において検討したところによれば、本件において強姦致傷事件が発生した事実は明らかであり、被告人は捜査段階において右犯行を自白しているのであるが、その内容には不合理、不自然な点もみられるので、その信用性は必ずしも高いものといえず、現場遺留のサンダルについてなされた警察犬による臭気選別の結果はある程度信頼できるものの、なお全面的に措信するには疑問が残り、又、被告人に対するポリグラフ検査の結果の証明力は極めて低いものといわざるを得ないのであつて、これらを併せてみても、やはり被告人を本件の犯人と認めるには不十分である。〈中略〉

そこで、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条に則り原判決の有罪部分を破棄し、右事実につき新らたな証拠による真相の解明はもはや期待し難いので、同法四〇〇条但書を適用し、当裁判所において次のとおり判決する。

被告人に対する昭和五一年四月三〇日付起訴状記載の公訴事実の要旨は、「被告人は、昭和五〇年九月二三日午前一時三〇分ころ、広島県呉市吉浦中町四丁目四七番橋本武夫方の東側路地において、同人方階下六畳間で寝ていた橋本由紀子(当時二一歳)の寝姿を覗き見ているうちに劣情を催し、同女を強姦すべく企て、同人方台所の東側窓から同人方に故なく侵入したうえ、同六畳間において、同女の上に馬乗りとなり、目を覚した同女に対して、その頸部を手で押え、『声を出したら殺すぞ。」と申し向け、さらにその顔面を一回殴打するなどの暴行、脅迫を加え、その抵抗を抑圧して強いて同女を姦淫しようとしたが、同女が大声で助けを求めたため、その場から逃走してその目的を遂げず、その際右暴行により同女に対し加療約一〇日間を要する顔面打撲症等の傷害を負わせた。」というものであるが、先に説明したとおり、犯罪の証明が十分でないから、刑事訴訟法四〇条、三三六条に則り被告人に対して無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(干場義秋 荒木恒平 堀内信明)

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